大判例

20世紀の現憲法下の裁判例を掲載しています。

東京地方裁判所 昭和60年(ワ)6247号 判決

原告

有限会社アス不動産

右代表者代表取締役

神代一昭

右訴訟代理人弁護士

吉川彰伍

被告

江戸川区

右代表者区長

中里喜一

右指定代理人

秋山松壽

外三名

主文

原告の請求を棄却する。

訴訟費用は、原告の負担とする。

事実

第一  当事者の求める裁判

一  請求の趣旨

1  被告は、原告に対し、金五三九八万三〇〇〇円及びこれに対する昭和六〇年四月六日から支払いずみに至るまで年五分の割合による金員を支払え。

2  訴訟費用は、被告の負担とする。

3  第一項につき仮執行宣言

二  請求の趣旨に対する答弁

主文同旨及び仮執行免脱宣言

第二  当事者の主張

一  請求原因

1  八嶋の詐欺行為について

東京都江戸川区本一色町七六二番地所在の田三九六平方メートル及び同所七六一番地所在の田五七五平方メートル(以下両土地を合わせて「本件土地」という。)の所有者は加藤克雄(以下「加藤」という。)であって、八嶋良雄(以下「八嶋」という。)には本件土地についてなんらの権利もないにもかかわらず、八嶋は、これを秘して、昭和六〇年四月五日、原告に対し、加藤の印鑑登録証明書を示したうえ、自己が本件土地の所有者の加藤であり、本件土地を売却したい旨虚構の事実を申し向け、原告をして、八嶋が加藤であり、代金完済と同時に、その所有権を取得しうるものと誤信させて、原告が本件土地を代金一億九六八〇万円で買い受ける旨の契約を締結させ、よって、売買代金名下に、原告から、同日、二〇〇〇万円を、同月八日、三〇〇〇万円を詐取したものである。

2  被告の行為について

八嶋は、昭和六〇年四月五日、顔面に包帯を巻いて人相を隠し、右手にも包帯を巻いて指紋がつくことを防いだうえ、被告区役所印鑑証明係員に対して、加藤名義の印鑑登録証亡失届を提出するとともに印鑑登録申請及び印鑑登録証明書交付申請をしたため、同係員は、同日、加藤名義の前記印鑑登録証明書を八嶋に交付した。

3  被告の責任について

印鑑登録証明書は、いったんこれが発行されると、これによって財産取引が行われ、印鑑登録証明書の名義人及び取引の相手方に財産上重大な影響を与えるものであるから、印鑑登録証明事務に携わるものは、印鑑登録証亡失届を受理し、新たな印鑑による印鑑登録証明書を同時に交付するに当たっては、申請者が印鑑登録名義人本人であるか否かにつき厳格な調査を尽くし、いやしくも他人に印鑑登録証明書を交付するような過誤を犯さないように十分慎重な配慮をして右事務を処理すべき職務上の注意義務がある。

しかるに、被告の区長の補助機関である被告区役所印鑑登録証明係員は、八嶋が顔面及び右手に包帯を巻き付け、人相・年令等につき外観上からは識別できない風体であったにもかかわらず、同人が火災により自宅が焼失し火傷を負った旨の虚偽の事実を述べたことに同情し、同人に本籍、現住所、生年月日、氏名を問いただしたのみでたやすく同人が本人であると軽信して、印鑑登録証亡失届を受理し、同日前記印鑑登録証明書を交付したのであるから、被告の区長には、その職務を行うについて過失があったものというべきである。

4  原告の損害について

(一) 八嶋に詐取された金員 五〇〇〇万円

(二) 本訴の弁護士費用 三九八万三〇〇〇円

5  よって、原告は、被告に対し、国家賠償法一条に基づく損害賠償請求として、五三九八万三〇〇〇円及びこれに対する不法行為の後の日である昭和六〇年四月六日から支払いずみまで民事法定利率年五分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二  請求原因に対する認否

1  請求原因1の事実(八嶋の詐欺行為)は、知らない。

2  請求原因2の事実(被告の行為)のうち、加藤と称するものが八嶋であることは不知。その余は認める。

3  請求原因3の事実(被告の責任)のうち、印鑑登録証亡失届を受理したこと、印鑑登録証明書を同日交付したこと、印鑑登録証明係員が加藤と称する者に対し、本籍及び生年月日を問いただし、現住所及び氏名を確認したこと並びに印鑑登録証明係員が被告の区長の補助機関であることは認め、その余は否認する。

4  請求原因4の事実(原告の損害)は、争う。

三  抗弁(過失相殺)

宅地建物取引業を営む原告としては、無権利者が印鑑登録証明書を冒用して不動産取引を行うことは十分に予測できるのであるから、土地所有者である加藤に直接連絡してその意思を確認することが要求されており、右意思確認により、損害の発生を容易に防止することができたはずである。

しかるに、原告は、加藤の意思を確認することなく、仲介者である三崎商事株式会社を軽信して、八嶋を土地所有者である加藤と誤信してものであって、宅地建物取引業者として通常要求される基本的な注意義務を著しく怠ったものというべきである。

したがって、原告の損害の算定に当たっては、右過失を斟酌すべきである。

四  抗弁事実に対する認否

抗弁事実は、否認する。

第三  証拠〈省略〉

理由

一〈証拠〉によれば次の事実が認められる。

1  八嶋、訴外小玉清(以下「小玉」という。)及び訴外神田博和は、昭和六〇年三月中旬頃、加藤の所有にかかる本件土地を同人に無断で他に売却し、その買受人から売買代金名下に金員を詐取しようと企て、偽造にかかる加藤名義の印章による印鑑登録を申請し、右印鑑についての印鑑登録証明書を利用して、八嶋が加藤であるかのように装い権限のある売主として同土地を売却することを共謀した。

2(一)  そこで、八嶋は、小玉とともに、同年四月五日、被告区役所生活振興部区民課区民係に赴き、加藤であるかのように装って、①八嶋が世帯主の氏名欄に「加藤克雄」、登録をする人の住所欄に「本一色町一六九番地、氏名欄に「加藤克雄 昭和五年四月一八日生 男」と記載して印影欄に偽造にかかる加藤名義の印章を押捺し、小玉が保証書欄の印鑑登録番号の欄に「二五六―三六七」、住所欄に「江戸川区本一色町六七二―一九」、氏名欄に「小玉清」と記載して登録済印欄に同人の印章を押捺して作成した印鑑登録申請者(乙第四号証)、②八嶋が所定事項を記載した印鑑登録廃止申請書及び③印鑑登録証明書交付申請並びに④前記偽造にかかる加藤名義の印章を、印鑑登録証明事務取扱の受付窓口に提出した。右各申請書を受理した受付事務等担当の被告職員中澤秀記(以下「中澤」という。)が八嶋に対して申請の理由を尋ねたところ、八嶋が火事で印鑑も印鑑登録証も焼けた旨を述べたので、中澤は、八嶋に対し、印鑑登録証亡失届を提出するように促した。八嶋が所定事項を記載して再度印鑑登録証亡失届を提出したので(被告が印鑑登録証亡失届を受理したことは、当事者間に争いがない。)、中澤は記載事項を確認し、印鑑登録原票に前記加藤名義の印章を押捺して、印鑑登録申請書、印鑑登録証亡失届、印鑑登録証明書交付申請書及び印鑑登録原票をベルトコンベアーに載せて、印鑑登録申請者の本人確認事務等担当の被告職員和久幸夫(以下「和久」という。)に送った。

(二)  和久は、加藤の住民票に従って印鑑登録原票に所定事項を記載したのち、右印鑑登録証亡失届によって被告保管の加藤の印鑑登録原票の除却手続を行い、更に、印鑑登録申請者が本人であることの確認が保証人の保証書でされていたため、被告保管の小玉の印鑑登録原票と保証書の記載内容及び印影を照合して、その同一であることを確認した。そこで、和久は、八嶋に対して、本人確認票(乙第七号証)によって口頭質問を行うことにした。

(三)  ところで、八嶋は、昭和二四年一〇月二〇日生れで当時三五歳であるのに対し、加藤は、昭和五年四月一八日生れで当時五四歳であった。また、八嶋は、顔を隠すために目・鼻、頬の一部を除き顔面の大部分を包帯で覆っていたほか、右手にも包帯を巻き付けていた。

(四)  和久は、八嶋に対し、加藤の本籍、生年月日及び保険の種類を尋ねた(本籍及び生年月日を尋ねたことは、当事者間に争いがない。)。八嶋は、あらかじめ記憶していた加藤の本籍及び生年月日を答え、保険の種類については、加藤が農家であることから国民健康保険であろうと推測してその旨を答えた。和久は、保証書の記載及び印影が正当であることが確認されたことに加え、八嶋の答えがいずれも正しかったこと、八嶋の応答の態度に不審な点がなかったこと及び印鑑登録証明書交付申請書(甲第一一号証)の氏名欄の「克雄」の振り仮名に「ヨシオ」と正しく記載されていたことから、八嶋が加藤本人であると信用し、それ以上の質問をしなかった。八嶋は、和久に対し、火事で印鑑と印鑑登録証を焼失した旨を述べたが、和久は消防署に火事の有無を照会することはしなかった。

(五)  そこで、和久は、印鑑登録原票を複写していわゆる間接証明方式による印鑑登録証明書五通及び印鑑登録証を作成し、交付事務担当の窓口に送った。八嶋は、右窓口で所定の手数料を支払つて、印鑑登録証と印鑑登録証明書を受け取った。

3  八嶋は、小玉とともに、同日、原告の事務所を訪れ、右印鑑登録証明書を示して本件土地を所有する加藤であるかのように装い、原告をその旨誤信させ、本件土地についてなんら処分確限がないにもかかわらず、原告との間で、原告が本件土地を代金一億九六八〇万円で買い受ける旨の売買契約を締結し、原告から手付金として現金で二〇〇〇万円を受け取り、更に、同月八日、中間金として現金で三〇〇〇万円、小切手で二〇〇〇万円を受け取って、これらを詐取した。

以上の事実が認められ、他にこれを左右するに足りる証拠はない。

二そこで、印鑑登録証亡失届及び印鑑登録申請書の各受理並びに印鑑登録証明書の交付について、印鑑登録事務担当の被告職員に過失があったか否かについて検討する。

1  昭和六〇年当時、江戸川区においては、江戸川区印鑑条例(乙第一号証の一)、同条例施行規則(乙第一号証の二)に基づいて印鑑登録事務が行われており、これによると、印鑑登録を受けている者(以下「印鑑登録者」という。)は、印鑑登録証を亡失したときは、印鑑登録証亡失届書により直ちに区長にその旨を届け出なければならず(同条例第一〇条)、この場合、区長は、当該印鑑の登録を抹消すべきであり(同第一四条)、印鑑登録証明書の交付を受けようとする者は、新たに印鑑登録の手続を踏むべきもとのされている。そこで、印鑑登録の手続をみると、印鑑の登録を受けようとする者(以下「登録申請者」という。)は、印鑑を提示して、印鑑登録申請書により、やむを得ない理由により代理人により申請する場合のほか、自ら区長に申請すべきであり(同第三条)、区長は、印鑑登録の申請があったときは、当該登録申請者が本人であること又は当該申請が本人の意思に基づくものであることを確認しなければならず、右確認は、郵送その他区長が適当と認める方法により登録申請者に対して文書で照会し、その回答書を登録申請者に持参させることによって行うものとされているが、なお、登録申請者が自ら申請した場合には、官公署の発行した免許証、許可証若しくは身分証明書であって江戸川区規則で定めたもの若しくは外国人登録証明書の提示があったとき、又は東京都の区市町村においてすでに印鑑の登録を受けている者がその印鑑登録証明書を添えて登録申請者が本人であることを書面で保証したときは、前記文書による照会によらずに、登録申請者が本人であることの確認をすることができる(同第四条)ものとされている。また、区長は、印鑑の登録及び証明に関し、必要な調査をすることができ、右調査を行うに当たり必要があると認めるときは、職員をして関係者に対し質問をさせ、又は文書若しくは印鑑の提示を求めさせることができる(同第一九条)ものとされている。

そして、〈証拠〉によれば、江戸川区の事務処理慣行として、第四条の確認のほかに、念のため、更に担当職員が登録申請者に面接する方法で確認することとしており、特に保証書による確認のときは、本人確認票(乙第七号証)を使用して右確認票記載の質問事項の幾つかについて口頭で質問して本人であることを確認することとしていたこと、被告における保証書による確認の件数は、昭和五九年度で一四三四件、同六〇年度で一四六六件に上ったこと、前記手続を定めている江戸川区条例は、印鑑登録証明事務について不正使用を防止するとともに手続きの簡便迅速化を図ることを目的として昭和四八年三月三一日に印鑑証明事務合理化研究会から自治大臣へ提出された「印鑑の登録および証明制度の合理化に関する報告」(乙第二号証)に沿って、昭和四九年二月一日に自治省行政局振興課長から各都道府県総務部長宛に発された「印鑑の登録及び証明に関する事務について」と題する通知(乙第三号証)所定の印鑑登録証明事務処理要領に準拠して制定されたものであって、その内容は、江戸川区独自のものではなく、各市区町村とも概ね共通であることが認められ、右認定に反する証拠はない。

2 ところで、印鑑登録証明書は、印鑑の登録又は証明書交付の申請をすることができる者を原則として本人に限定していることから、登録された印鑑の印章と印鑑登録証明書とを所持する者は本人であるとする人格の同一性を確認する手段として、あるいは登録された印鑑のある文書に印鑑登録証明書を添付することによってその文書が真正に成立していることを担保する手段として用いられており、不動産の登記、自動車の登録、公正証書の作成等法令の規定に基づき提出を義務付けられている場合のほか、権利義務の発生、変更等を伴う重要な行為につき、広く利用されているのであるから、印鑑登録等の申請者本人が全く関知しない間に本人の意思に基づかないで、印鑑登録がされ、あるいは印鑑登録証明書が交付されると、それが不正に使用される危険があるものといわざるをえない。従って、印鑑登録証明の事務を担当する地方公共団体の職員は、本人の意思に基づかない印鑑の登録又は印鑑登録証明書の交付をすることがないように本人の確認に慎重な注意を払うべき職務上の注意義務があるものとすべきである。しかし、他方、印鑑登録証明制度は、大量の事務の簡便・迅速な処理と印鑑登録証明書の不正使用の防止という二つの相反する要請の上に成り立っているのであり、前記のとおり江戸川区印鑑条例及び同条例施行規則は、右の要請の調整を図って、自治省の通知に準拠して印鑑登録証明手続を定めており、かかる手続は、その制定の趣旨に照らし、本人の同一性の確認の方法として合理性を有するものと解される。以上の点を合わせ考えれば、職務上の注意義務違反の有無は、当該担当職員が本人の同一性を確認するにつき、印鑑登録証明事務処理当時の条例、規則及びその制定の趣旨に照らして相当な方法による調査等をすべき注意義務を怠ったか否かによって決せられるべきものと解するのが相当である。

3  そこで、本件において、印鑑登録等の申請者本人の同一性の確認事務を担当した被告職員和久の事務手続について、これをみると、和久は、まず、保証人小玉の保証書でされている本件印鑑登録申請につき、保証書の記載と印影を被告保管の小玉の印鑑登録原票と照合し、その同一性を確認したのち、被告の事務処理慣行に従って、印鑑登録申請をした八嶋に対し、本人確認票を使用して加藤の本籍、生年月日等につき質問を行ったこと、ところが、本件においては、八嶋が被告を欺罔して加藤名義の印鑑登録をするために、あらかじめ加藤の本籍、生年月日を記憶しており、記憶していなかった保険の種類についても、加藤が農家であるので国民健康保険と推測した八嶋の答えがたまたま正答であったため、和久が事務処理慣行に従って行った本人確認の方法も全く徒労に帰したこと、更に、八嶋の態度に不審な点がなかったうえ、八嶋が事前の調査に基づき、印鑑登録証明書交付申請書の申請者の氏名欄の「克雄」の振り仮名に「ヨシオ」と正しく記載したため、和久は八嶋を加藤本人と信用して印鑑登録をしたことは、前認定のとおりである。従って、和久は、江戸川区条例、同条例施行規則及びその制定の趣旨に照らし、本人の同一性の確認につき相当な方法による調査を行ったものということができ、和久には職務上の注意義務違反はないというべきである。

なお、この点につき、原告は、八嶋と加藤では年令において一九歳の違いがあること、八嶋は顔面及び右手に包帯を巻き付けるという異常な風体であったこと、八嶋が印鑑登録証を火事で焼失したと述べたことから、印鑑登録証明事務を担当する被告職員は、消防署に火事の有無について照会すべきであったと主張するが、本件においては、前記のように本人確認のための相当な調査を行っているのであるから、本件全証拠によっても、これに加えて更に消防署に対する照会まで行うべき職務上の注意義務を肯認するに足る特段の事情は認められず、原告の主張は採用することができない。

三よって、原告の本訴請求は、その余の点について判断するまでもなく、理由がないから、これを棄却し、訴訟費用について民訴法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官加藤和夫 裁判官佃 浩一 裁判官鹿子木 康)

自由と民主主義を守るため、ウクライナ軍に支援を!
©大判例